今村復興相の辞任に関して思う日本の辞任文化・責任文化・謝罪文化
今朝からニュースを賑わしている今村復興相の辞任。
発言一つで辞任に追い込まれる社会の目や声は本当に厳しいなと感じる一方で、
今村復興相の真意に寄り添ったものや言葉一つでジャッジする文化が改善されていけばなぁとも感じますね。
問題となっている文言はこちら。
「社会資本などの毀損も、いろんな勘定のしかたがあるが、25兆円という数字もある。これは、まだ、東北のほうだったからよかったが、もっと首都圏に近かったりすると、ばく大になる」
確かに、東北の震災自体を肯定するという見方をすればそう聞こえるし、その解釈で東北の方の気持ちになると複雑な心境になるでしょう。
ただ、25兆円という金額だけをみれば、首都圏で発生しなかったことが日本全体にとってよかったとも解釈できる。
「被災地に寄り添う」
といった判断基準からしたら確かに適切とは思わないですが
それぞれの立場によって、単語一つ、言葉一つに対してのイメージや感情というものがあって当然のこと。
最新の注意を払いながら言葉ひとつを気にしていたら、何も発言できなくなってきますね。
安倍総理大臣も自ら、「東北の方々を傷つける極めて不適切な発言で、総理大臣として、おわびをさせていただきたい」と陳謝しましたが、野党からは辞任要求の嵐。
結果として、
今村復興相は辞任という形を取り
安倍総理大臣の大臣任命責任はどうなるんだという声も野党から上がったり
本当にこの辞任文化、責任文化、謝罪文化が根強い日本だなと感じますね。
不適切な発言・失言・暴言と撤回の繰り返し
大臣という役割上、答弁など言葉を慎重に選ぶべきなのはわかるが、その場のとっさの言葉というのは意図としていない言葉が出るもの。
適切でない発言かもしれないが、それで都度都度、大臣が辞任していれば、それこそ国や被災地にとって適切な対応なのかということも疑問に感じるところ。
発言者に寄り添う文化へ
誹謗中傷することは簡単。
一つの解釈に固定したモノの見方の延長上では、良い方向性に進んで行くことはできないと思います。
受け取る側も、発信者の言葉の裏にあるイメージや感情まで、寄り添って理解してあげる文化になっていかなければならないなと感じますね。