英語・韓国語などとは違った日本語の奥深さ
日本語というのは非常に奥深いですね。
ひらがな、カタカナ、漢字、など組み合わさってできる日本語というもの。
とくに漢字については、単語一つでイメージできるという意味では世界的に見ても特殊だそうです。
例えば、「和」や「硬」という漢字。
この単語ひとつでも、何かしらのイメージが一人一人浮かびませんか?
韓国人の友人やアメリカの友人に話を聞くと、ハングル語や英語というのは一文字だけでは意味を持たないそうです。
つまり、アルファベットの「a」という文字だけでは何の意味も持たないということ。
appleなどの文字が連なって初めて意味を持つのが英語みたいです。
(言われてみれば当然か・・・・)
(ハングル語も同じです)
英語やハングルは、文字を組み合わせてようやく意味を持つと言っていたのを以前韓国の友人が言っていたのを思い出しました。
ひらがな・カタカナは仮の名前
仮名というもの自体本当に面白いです。
「仮の名前」
存在につけたその名前は、あくまで仮の名前で存在の本質ではない。
aという状態につけた仮の名前
bという状態につけた仮の名前
真理はaにもなれるbにもなれる名前をつけることができないそのものであるはず。
昔の日本人は、悟っていたのかなと思わせますね。
言語が変わればコミュニケーションが変わる
当然コミュニケーションスタイルも変わってくる気がしますね。
単語ひとつにひとつイメージを持つ日本語を使ったコミュニケーション。
何となく伝わってしまうからはっきり物事を伝達しなくてもコミュニケーションが成り立ってしまう。
間の文化はそういった所も繋がってくるのではないかと思います。
一方、英語やハングルは、はっきり物事を言って伝えないとわからない。
直球勝負の印象がありますが、使っている言語そのものがその原因を生み出しているという見方もできます。
人間が発明した偉大な道具
言語というものは、人間が発明した偉大な道具であることは間違いありません。
しかし、言語があるからコミュニケーションが成り立つ一方、言語によってコミュニケーションがずれるということも言えます。
言語が変われば、文法も変わる、コミュニケーションも変わる。
様々な可能性を含んでいるのが”言語”です。
おまけ
アメリカでは、第三言語の選択肢にプログラミング言語というのがあるそうですね。
インターネット社会、AI社会に突入している今の時代ならではの話題かもしれませんが、プログラミング言語を学んでいるかどうかが一つのステータスになるのは間違いないでしょう。
オバマ大統領が、「すべての国民に学んで欲しい言語がプログラミング言語」と言っているくらいです。
言語の可能性。
これについてはもっともっと意味価値を深めていきたなと思います。