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『群盲象を評す』の意味とは〜全体から出発する演繹的アプローチの重要性〜

諺(ことわざ)を通して、全体像からのアプローチが如何に重要なのかが伝わればなと思います。

 

『群盲象を評す』

 

Wikipediaには、以下のように表現されています。

この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場する。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、というもの。

  群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす) - Wikipedia

 

例えば、4人の盲人がいたとして、

・Aさんには鼻

・Bさんには牙

・Cさんには尻尾

・Dさんには耳

それぞれ象の一部だけを触ってもらい、これが象だと伝えます。

 

自分のイメージで象を認識した4人の盲人を集め、象について話したらどうなるでしょうか?

当然、全員のイメージがバラバラなので矛盾した会話になります。

そして、協力して象の絵を書いたとしても正しい象の絵は描けません。

 

ここで、言いたいのは

部分を繋げていったとしても全体にならないということ。

また、全体像がわかってから部分を知るのとその逆は天地の差があるということです。

 

これは私たちの認識にも大きく関わることです。

 

物理や科学においては、部分からの帰納的アプローチによって

統一理論、マスター方程式を見つけようとしています。 

しかし、細分化を繰り返して部分の理論を構築するというアプローチ方法自体には限界があります。

 

 

部分の存在の部分の変化だけを見るでのではなく、

全体の存在の全体の変化を観ること。

 

 

永遠不変の絶対真実世界「1」から複雑多様でバラバラな相対世界「2」が

「どんな素材・どんな仕組み・どんな目的」で生まれるのかを説明する演繹的なアプローチを

誰もが客観的に共有・伝達できるようにならない限り知の統合は起きません。

 

逆に、究極のシンプル、かつ究極の全体像から出発して

全く新しいモノの観方・基準点から全てを演繹的に整理整頓することができたとしたら

それは間違いなく全世界のグローバルスタンダードの教育になっていくはずです。

 

 

日本人は、独特の手先の器用さや緻密さから部分を極める職人のようなタイプの人が多い傾向にあり、全体像を見るのが苦手な人も多いかもしれません。 

だからこそ、このアプローチ方法とそれを実現する技術・道具は日本人にとって最も必要なのではないかと思います。

 

シンプル革命から新しい生き方、新しいライフスタイルの変革を創っていく時代がもうすぐスタンダードになっていきます。

 

Simple is the best Beauty!!

 

 


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