「言語」が大事なのではない
先日、友人と会話していた時の一コマ。
「言語」というのは、相手に自分のイメージや考え・感情を伝達するための一つの道具であって、大事なのは「言語」そのものじゃないということ。
その人のイメージや考え・感情と完璧に一致することができるかどうか、それが大事だと改めて気づきがありました。
単語に言語化された瞬間、その単語ひとつひとつに全員違うイメージが走ります。
例えば「アップル」という単語。
この単語を聞いた瞬間、どんなイメージが浮かびますか?
・赤いリンゴひとつをイメージした人
・カットされたリンゴをイメージした人
・木になるりんごをイメージした人
・Apple社をイメージした人
・Macのパソコンをイメージした人
・スティーブジョブズをイメージした人
など
日本語、韓国語、英語、中国語、どんな言語で表現されたかにもよるし、
このように単語ひとつとってもその人なりの過去の記憶から瞬時に独自の解析が走ります。
このバラバラな状態をさらに言語で補おうとしても完璧にイメージを一致させるということは不可能だと思いませんか?
だからコミュニケーションというのは、必ずずれるものなのです。
別の表現をすれば、言語はあくまで表現の道具であって言語そのものが大事なのではないということです。
暗記言語をいくら積み重ねてもコミュニケーション能力はあがらないですし、 無意識深いイメージまで一致させるためには、暗記言語では不可能です。
言語を補う「メタ言語」を使わない限り、本当の循環・交流は起きないと改めて感じました。
先日、「メタ言語」の必要性についても書いたところなので、ぜひこちらもご覧ください。